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ここはサイト管理者が、動物病院のお仕事とはおおよそ関係のない、様々な話題を提供する超個人的なコーナーです(笑)。

260年の時を経て

慶長5年・9月15日・午前8時・関ヶ原
9月ですね。(すいません、執筆当時のことです^^;)
「運動の秋」・「食欲の秋」・「天高く馬肥ゆる秋」です。
そういえば、「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」というのは、同じ北陸は福井県の「丸岡城」ゆかりの「本多重次」が
「長篠の戦い」の陣中から奥さん宛に書いた手紙だそうですね。

その家系の「本多忠勝」は「徳川四天王」と謳われた「家康」の側近の1人。

・・・・・・「徳川家康」・・・・・・

時は旧暦・慶長5年(1600年)9月15日、
天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。

東軍の総大将は「徳川家康」。
西軍の総大将は「毛利輝元」。
(輝元は、前田利家が石田方についたと謀られて
総大将についたとの説、有力。)

しかし、西軍の実働部隊の隊長は「石田三成」。
「たかだか19万石取りの三成なんぞについていけるか!」
とばかりに、多くの大大名は東軍へ。
かたや、西国大名の多くは西軍総大将の毛利輝元をたより、
西軍へ。

・・・陣地を見ると・・・
関ヶ原合戦場の北西に位置する「笹尾山」に石田三成が陣を敷き、
そこから南方向へと横並びに大谷吉継陣営まで広がる。
それに対して徳川方は、石田陣営の南東方面に家康が本陣を敷いた「桃配山」付近。
しかし、さらなる南東方面にある「南宮山」には、
西軍の「吉川広家」「毛利秀元」「安国寺恵瓊」「長宗我部盛親」
などが陣を敷き、くわえて合戦場南方の「松尾山」には、これまた西軍の「小早川秀秋」。
あれ?・・・家康・・・「袋のタヌキ」じゃん(笑)。

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「松尾山」(小早川本陣)より見下ろす「笹尾山」(石田本陣)
(カメラの方角は北を向いてます)
(写真は全てクリックで拡大されます)
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「松尾山」より見下ろす「桃配山」(徳川本陣)方面
(カメラの方角は東北東を向いてます)
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「笹尾山」(石田本陣)より見上げる「松尾山」(小早川本陣)
(カメラの方角は南を向いてます)


陣形だけ見れば、家康の命は「風前の灯」。
ところが家康は「調略」という手段にて、
すでに各武将を寝返らせていた。
吉川広家とか小早川秀秋とか・・・

合戦時、南宮山の麓に陣を敷く吉川広家勢は・・・
朝から弁当食い続けで、
動かず・・・・・・
その後方、南宮山の上に陣を敷く、
毛利・安国寺・長宗我部各勢力は・・・
動けず・・・・・・

(吉川広家陣地跡は、住宅地の中で家1軒分の空き地として
残るだけ。その隣の建物は弁当の仕出し屋さん(笑)。
仕出し屋さん・・・GJ!!!)

小早川秀秋・・・・・・
もたもたしているところを前進してきた家康陣よりの
発砲による脅しを受け、大谷勢へ急襲!
これで戦いは決した・・・・・・しかもたった1日で。
関ヶ原のフィナーレは、最後まで三成と馬が合わずに動かずにいた「島津軍」の、世界の合戦史上においても類い稀な、真正面への
敵中突破!

合戦後、島津・毛利・長宗我部は
「何をしにここまで来たんだろう?」と思ったらしい。

「島津」はなんとか「薩摩」へ帰国。
「毛利」は寝返った吉川らの親戚、
なんとか萩「長州」への移封で事が済む。
「長宗我部」は、同じ南宮山に陣を敷いた寝返り勢とは違う立場。
ただただ動けなかっただけ。
合戦後ケチョンケチョンにやられてお家断絶のうえ、
山内家が「土佐」にはいって、
上士(山内家家来)と下士(元・長宗我部家家来)の
身分の差が成立。
あれ?・・・「薩・長・土」・・・「幕末の志士」・・・?

長宗我部家断絶の後の土佐に山内家がはいったのは、
家康のご褒美。
家康の調略のために活躍した舞台は、
合戦前に「山内一豊」が差し出した掛川城。

・・・山内一豊というと・・・
そう、旦那が「馬買いたい!」と言ったら、
持参金を出して日本初の「ヘソクリ女房」と言われた、
あの内助の功で有名な「千代さん」の旦那。
千代さんのおかげで少しづつ少しづつ出世をしてきた戦国武将。
合戦時には、桃配山後方で
南宮山に睨みを利かせる役だったらしいです。
寝返った連中に睨みを。

歴史にタラレバを言っちゃいけないけど、
千代さんがいなかったら、260年後の「明治維新」は
起きていなかったのか・・・?
全然違う世の中になっていたのか・・・?

などという事をブツブツ考えながら、
古戦場をめぐる旅をしています。

あ・・・それと、おそらく権利が派生するんで
写真をアップすることはできませんが、
古戦場近くにあるB級wアミューズメントスポット、
「関ヶ原ウォーランド」もオススメですよ(笑)。

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